「地方に移住」して気づいた「大切なコト」

東京から地方に移住。移住生活をしながらの気づきを書いていきます。

お金の使い方が「消費」から「投資」へ

地方生活になり、

お金の使い方がそれまでと変わりました。

 

お金を使う機会が減ったこともありますが、

お金の「使い方」も変わりました。

 

必要なものしか買わなくなった、

と言ってしまえばそれまでですが、

もう少し考えてみると「消費」が減って、

「投資」が増えた感覚があります。

 

お金の使い方には大きくわけて、

「消費」と「投資」の2つがあると思います。

 

なかにはこの2つに分けることができない使い方もありますが、

ぼくはざっくりこの2つで理解しています。

 

たとえば、

毎日食べるごはんにかかるお金は「消費」です。

消費は一度、お金を払ってしまえば、将来的に返ってくることは

ありません。

 

一方、住宅取得のようなお金の使い方もあります。

これは「投資」になります。投資したお金は、

将来的に回収できます。

住宅は最終的に「資産」となって手元に残ります。

 

地方生活で変わったことは、

「消費」が減り、「投資」が増えたことです。

 

意識的に「消費」をおさえ、

「投資」に回すようにしています。

 

このようなお金の使い方の変化は

大事な変化だと感じます。

 

地方生活での「お金」との付き合い方

地方生活での「お金」との付き合い方について

考えてみたいと思います。

 

一般的に、

都会生活のほうが給与水準は高く、

地方生活のほうが低い傾向にあります。

 

ぼくの感覚では、

地方の給与水準は都会の「4~5分の1」という感覚です。

 

なぜ、地方のほうが給与水準が低いかというと、

生活コスト(居住費・食費など)が安くて済むからです。

 

例えば、

新宿で1LDKの家を借りようと思えば10万円はしますが、

地方では「4-5万円」程度で借りることができます。

 

このような生活コストの差が、

そのまま給与水準に反映されています。

 

なので、

給与が少ないので、地方生活は大変だと思われがちですが、

実際の生活水準はそれほど都会と変わりません。

 

むしろ都市で生活していたころを振り返ってみると、

消費の中でも「無駄な消費」が多かったなと感じます。

 

消費は「基礎的消費(食費・居住費など)」、「投資的消費(教育費など)」、

「浪費的消費(ブランド品など)」に分けられます。

 

このうち「浪費的消費」が都市で生活をしていると

多く発生します。

 

例えば、

友達が持っているバックを自分がほしくなって買ってしまう、

広告につられてついつい不要な洋服や化粧品を買ってしまう、

などです。

 

地方で生活をしているとこのような「浪費的消費」

は極端に少なくなります。

 

逆に、本当に必要なものにだけお金を使うようになります。

 

そして、

本当に必要なものにだけお金を使っていると、

自分の生活を支えるために「お金がいくら必要か」がわかってきます。

 

 

ひとの成長は「お金」だけでは測れない

社会人にとって、

自分の成長を測る上でもっとも大事な指標は

「お金(給与・収入)」です。

 

たいていの会社には給与テーブルがあり、

社員は、より上の階級や職位を目指してはたらきます。

 

これはサラリーマンであれば当然の習性であり、

宿命ともいえます。

 

このように「成長の尺度」を「お金(給与)」に

換算することは、当たり前のように思えます。

 

しかし、

今の時代、給与は右肩上がりに上がるわけではありません。

 

大企業で一生を勤め上げる人も減っています。

転職が前提の社会であり、給与も思うように上がるわけではないでしょう。

 

その結果として、給与が思うように上がらないと、

自分は成長してないのではないか、と考えがちです。

 

しかし果たして、本当にそうでしょうか、

とぼくは思います。

 

そもそも、

ひとの成長をお金というひとつの基準で測ることなど

できるのでしょうか。

 

ぼくはできないと思います。

 

ひとの成長は「お金」では測れないものが

たくさんあります。

 

たとえば、

こどもの成長もそのひとつです。

 

子供は生まれてから働きはじめるまで

あらゆる面で成長します。

しかし、

子供が「より稼げるようになっているか」というと

そうではありません。

 

子供の成長は「金銭的価値」によって測ることはできません。

 

ところが大人になり、社会人になると、

成長の指標が「お金」のみになってしまう。

これは不思議なことだと思います。

 

大人にも「金銭的価値」以外の成長の指標は

たくさんあります。

 

それらは「精神的な成長」と呼ばれるものです。

お金という成長尺度から一度、自由になると

このことが本当によくわかってきます。

 

思うに、

資本主義社会が「成長ゲーム」であるという前提は

悪くありませんが、

「『お金(金銭的価値)』を成長の唯一指標」にしてしまうこと

は個人にとって、あまりよくないのかもしれません。

 

成長指標が多様化し、

より多くの人が自分の尺度で成長を測れると

世の中はもっと幸福になるかもしれません。

 

 

「成長ゲーム」と「成熟ゲーム」

振り返ってみると、

東京で生活しているときはよく働いていました。

 

仕事が生活のほとんどすべてを

占めていたと思います。

 

プライベートの時間はありましたが、

仕事のことばかり考えていました。

 

なぜそんなにも仕事をしていたのか。

 

その背景にあるのは、

「成長しなければいけない」という気持ちであり、

「成長しなければ負ける(不幸になる)」という危機感

でした。

 

受験のときはよい大学に入らないと。

会社に入れば、目標を達成しないと。

 

そんな気持ちばかりでした。

 

いわば資本主義社会が個人に対して求める

「成長ゲーム」に乗っかっていたのかもしれません。

 

この「成長ゲーム」の盤上では、

より高い目標を達成し、成長を続ける人が勝ちます。

 

いまも会社で働いていますので、

半分はこの盤面の上で生きています。

 

一方で、

私生活は「成熟ゲーム」の盤面にのせています。

 

個人は、成長しなくても幸福になれます。

「成長」は個人の幸福にとって絶対条件ではありません。

 

これは資本主義社会では禁句でしょうが、

実感としては間違いありません。

 

むしろ「成長」が与えてくれる幸福には終わりがありません。

また次の成長、次の成長と、果てしない目標がやってきます。

 

それらをすべて達成し続けなければ幸福でい続けることはできません。

そんなのは不可能です。どこかで息切れを起こしてしまうでしょう。

 

「成長ゲーム」の中で与えられる幸福は「条件つき」です。

その条件は「成長している限り」です。

 

しかし「成熟ゲーム」は異なります。

成長しなくても、幸福になることができます。

「自然の時間」を感じる

都会で生活をしていると、

時間を気にせずにゆっくり過ごすことは

あまりありませんでした。

 

平日は仕事に追われていますし、

休日であっても、仕事のことを完全に忘れることはできません。

 

あ、あれやったけ?

これ、どうなったんだっけ?

 

そのような心配事や不安が

いつも頭のどこかにあり、心からゆっくり過ごすことが

できませんでした。

 

これは多かれ少なかれ、仕方のないことかと思います。

ぼくはリクルート系の会社に勤めていましたので、

仕事自体はかなりハードでした。

 

その分、やりがいもありましたが、

やはり、生活をしているなかでの「消耗」している感じ、

はありました。

 

このまま自分は走り続けられるだろうか・・

いつまでこの生活を続けるのか・・

 

そのような不安は、

忙しい毎日の中で無理やりに押し殺していました。

 

地方に居住を移し、

自然に囲まれて生活をしていると、

そのような生活の不安を感じなくなりました。

 

なにより「時間」をゆっくりと過ごすことができるようになりました。

 

仕事を気にせずに、

目の前のことだけを考え、感じる時間が増えました。

 

そして、

「自然の変化」を感じながら、

ときを過ごすことが増えました。

 

たとえば日の出を見ること。

日没を見ること。

梅雨を感じること。

田植えの青臭さを感じること。

 

そのような日々の場面場面での自然との接続が

よりゆっくりとした時間の流れを感じさせてくれます。

「時計」から自由になる瞬間

地方で生活をしていると、

「時計」から自由になる瞬間があります。

 

都会で生活していると、

「時計」に従うことが当たり前になります。

 

「時計」の時間はいつも頭のどこかにあり、

ちらちらと時計を見ながら生活しなければなりません。

 

たとえば、

電車で仕事に行くときも、

学校にいくときも、

買い物にいくときも。

 

そこにはいつも、

「時計」の存在があります。

 

しかし、

地方での生活には「時計から自由になれる瞬間」があります。

 

それは、

「時計」を通してではなく、

「自然の様子(変化)」を通して、

『時の流れを知る瞬間』です。

 

たとえば、日没。

太陽が地平線に沈む瞬間、

そのとき太陽の光が茜色に光り輝きます。

 

その瞬間が、

一日が終わりを告げる瞬間です。

 

一日の終わりの時間は、

「時計」が指し示す時間ではありません。

(19時や20時など)

 

それは、

一日一日変化し、変わっていくのです。

 

自然の流れは絶えず変化しています。

時間の流れも、それに伴って変化しています。

 

地方の生活では、

そのような時間の変化を体感できます。

 

時計ではなく、

人々が時計を発明する以前の時間を感じることができます。

人は「成長」ではなく「循環」する生きもの

都会に暮らしているとき、

ぼくは無意識のうちに「成長」はよいことだと思っていました。

 

昨日よりも今日、

今日よりも明日の自分が、

より良くあるべき、と。

 

会社では常に「数字」を求められます。

その数字は前期よりも今期、

今期よりも来期、とどんどん上がっていきます。

 

より高い数字を追いかけ、

達成することは当然だと思っていました。

 

より高い数字目標を達成できることが、

自分にとって成長の証だったからです。

 

会社以外の生活の場でも、

「成長」はぼくの価値観の大前提にありました。

 

考えてみると、

資本主義社会である以上、

「成長」は社会の価値観の土台になっています。

 

しかし、

地方で生活をはじめてみて、

この「成長」は絶対的なものではないなと感じています。

 

むしろ人間の生活の本質を考えたとき、

成長は本当に必要なのだとうか、と。

 

確かに、社会を発展させるためには成長が必要です。

企業にとっても成長は不可欠です。

 

しかし一個人として、ひとりの人間として幸福に生きていくためには、

成長よりも大事な考え方があるのではないかと思っています。

 

「成長」ではなく「循環」。

ぼくの中では「循環」という言葉が一番しっくりきています。

 

大きな歴史の中で、

人間はちっぽけな存在です。

 

大きな自然界の中で、

人間は本当にちっぽけな存在です。

 

自然に囲まれて暮らしていると、

そのことが痛いほどわかってきます。

 

自然の動き、

働きの前では人間など無力な存在です。

 

人間にできること。

それは自然のめぐり(循環)にのっとって、

生きていくことではないかと。

 

そう感じるようになってきます。

 

都会生活で信じていた「成長」という価値観から解かれ、

今は「循環」が大事だと感じています。