「地方に移住」して気づいた「大切なコト」

東京から地方に移住。移住生活をしながらの気づきを書いていきます。

「成長ゲーム」と「成熟ゲーム」

振り返ってみると、

東京で生活しているときはよく働いていました。

 

仕事が生活のほとんどすべてを

占めていたと思います。

 

プライベートの時間はありましたが、

仕事のことばかり考えていました。

 

なぜそんなにも仕事をしていたのか。

 

その背景にあるのは、

「成長しなければいけない」という気持ちであり、

「成長しなければ負ける(不幸になる)」という危機感

でした。

 

受験のときはよい大学に入らないと。

会社に入れば、目標を達成しないと。

 

そんな気持ちばかりでした。

 

いわば資本主義社会が個人に対して求める

「成長ゲーム」に乗っかっていたのかもしれません。

 

この「成長ゲーム」の盤上では、

より高い目標を達成し、成長を続ける人が勝ちます。

 

いまも会社で働いていますので、

半分はこの盤面の上で生きています。

 

一方で、

私生活は「成熟ゲーム」の盤面にのせています。

 

個人は、成長しなくても幸福になれます。

「成長」は個人の幸福にとって絶対条件ではありません。

 

これは資本主義社会では禁句でしょうが、

実感としては間違いありません。

 

むしろ「成長」が与えてくれる幸福には終わりがありません。

また次の成長、次の成長と、果てしない目標がやってきます。

 

それらをすべて達成し続けなければ幸福でい続けることはできません。

そんなのは不可能です。どこかで息切れを起こしてしまうでしょう。

 

「成長ゲーム」の中で与えられる幸福は「条件つき」です。

その条件は「成長している限り」です。

 

しかし「成熟ゲーム」は異なります。

成長しなくても、幸福になることができます。

「自然の時間」を感じる

都会で生活をしていると、

時間を気にせずにゆっくり過ごすことは

あまりありませんでした。

 

平日は仕事に追われていますし、

休日であっても、仕事のことを完全に忘れることはできません。

 

あ、あれやったけ?

これ、どうなったんだっけ?

 

そのような心配事や不安が

いつも頭のどこかにあり、心からゆっくり過ごすことが

できませんでした。

 

これは多かれ少なかれ、仕方のないことかと思います。

ぼくはリクルート系の会社に勤めていましたので、

仕事自体はかなりハードでした。

 

その分、やりがいもありましたが、

やはり、生活をしているなかでの「消耗」している感じ、

はありました。

 

このまま自分は走り続けられるだろうか・・

いつまでこの生活を続けるのか・・

 

そのような不安は、

忙しい毎日の中で無理やりに押し殺していました。

 

地方に居住を移し、

自然に囲まれて生活をしていると、

そのような生活の不安を感じなくなりました。

 

なにより「時間」をゆっくりと過ごすことができるようになりました。

 

仕事を気にせずに、

目の前のことだけを考え、感じる時間が増えました。

 

そして、

「自然の変化」を感じながら、

ときを過ごすことが増えました。

 

たとえば日の出を見ること。

日没を見ること。

梅雨を感じること。

田植えの青臭さを感じること。

 

そのような日々の場面場面での自然との接続が

よりゆっくりとした時間の流れを感じさせてくれます。

「時計」から自由になる瞬間

地方で生活をしていると、

「時計」から自由になる瞬間があります。

 

都会で生活していると、

「時計」に従うことが当たり前になります。

 

「時計」の時間はいつも頭のどこかにあり、

ちらちらと時計を見ながら生活しなければなりません。

 

たとえば、

電車で仕事に行くときも、

学校にいくときも、

買い物にいくときも。

 

そこにはいつも、

「時計」の存在があります。

 

しかし、

地方での生活には「時計から自由になれる瞬間」があります。

 

それは、

「時計」を通してではなく、

「自然の様子(変化)」を通して、

『時の流れを知る瞬間』です。

 

たとえば、日没。

太陽が地平線に沈む瞬間、

そのとき太陽の光が茜色に光り輝きます。

 

その瞬間が、

一日が終わりを告げる瞬間です。

 

一日の終わりの時間は、

「時計」が指し示す時間ではありません。

(19時や20時など)

 

それは、

一日一日変化し、変わっていくのです。

 

自然の流れは絶えず変化しています。

時間の流れも、それに伴って変化しています。

 

地方の生活では、

そのような時間の変化を体感できます。

 

時計ではなく、

人々が時計を発明する以前の時間を感じることができます。

人は「成長」ではなく「循環」する生きもの

都会に暮らしているとき、

ぼくは無意識のうちに「成長」はよいことだと思っていました。

 

昨日よりも今日、

今日よりも明日の自分が、

より良くあるべき、と。

 

会社では常に「数字」を求められます。

その数字は前期よりも今期、

今期よりも来期、とどんどん上がっていきます。

 

より高い数字を追いかけ、

達成することは当然だと思っていました。

 

より高い数字目標を達成できることが、

自分にとって成長の証だったからです。

 

会社以外の生活の場でも、

「成長」はぼくの価値観の大前提にありました。

 

考えてみると、

資本主義社会である以上、

「成長」は社会の価値観の土台になっています。

 

しかし、

地方で生活をはじめてみて、

この「成長」は絶対的なものではないなと感じています。

 

むしろ人間の生活の本質を考えたとき、

成長は本当に必要なのだとうか、と。

 

確かに、社会を発展させるためには成長が必要です。

企業にとっても成長は不可欠です。

 

しかし一個人として、ひとりの人間として幸福に生きていくためには、

成長よりも大事な考え方があるのではないかと思っています。

 

「成長」ではなく「循環」。

ぼくの中では「循環」という言葉が一番しっくりきています。

 

大きな歴史の中で、

人間はちっぽけな存在です。

 

大きな自然界の中で、

人間は本当にちっぽけな存在です。

 

自然に囲まれて暮らしていると、

そのことが痛いほどわかってきます。

 

自然の動き、

働きの前では人間など無力な存在です。

 

人間にできること。

それは自然のめぐり(循環)にのっとって、

生きていくことではないかと。

 

そう感じるようになってきます。

 

都会生活で信じていた「成長」という価値観から解かれ、

今は「循環」が大事だと感じています。

 

地方生活の「楽しみ方」

都会と地方では、

生活の「楽しみ方」がちがうと感じます。

 

刺激や新しさに満ちた都会の生活とは違い、

地方にはまた別の種類の「刺激」があります。

 

たとえば、ぼくは東京に住んでいるときと、

糸島に移住したあとで、

「本の読み方」が変わりました。

 

東京に住んでいるときには、

新刊本の情報がすぐに耳にはいってきます。

通勤電車に乗っていれば、

中づり広告に話題の本の情報がのっています。

 

それらの新しい本の情報は、

好むと好まずにかかわらず、入ってきます。

 

本好きのぼくは、

そのような本の情報を見ると、

ついつい読みたくなってしまいます。

 

本屋さんにたちより、

新しい本を買ってしまいます。

 

新しい本や話題の本をたくさん読む。

それが都会生活での本の楽しみ方でした。

 

一方、

地方での本の楽しみ方は異なります。

 

地方の生活では、

あまり新刊本の情報は目につきません。

本屋さんも実はそんなに身近にありませんので、

ふらっと本屋さんに立ち寄ることも少なくなりました。

(考えてみると、繁華街をぶらぶらする時間も少なくなりました)

 

すると、

新しい本を読みたいという欲求も少なくなります。

 

逆に、ひとつの本をじっくりと読むようになりました。

「早く」読むよりも、時間をかけて「ゆっくり」と読みます。

自分の心にひっかかったこと、気になったところ、

印象にのこった文章は何度も繰り返し読みます。

 

読書をしながら、

ひらめいたこと、考えたことをじっくりとメモをしています。

 

このように、

都会生活のときと、地方での生活では

「本の読み方=楽しみ方」が変化しました。

 

これは本に限ったことではないと感じます。

 

生活のさまざまな場面で、

生活の「楽しみ方」が変わりました。

地方の生活は「シンプル」

地方の生活は都会ほど、

「選択肢が多く」ありません。

 

つまり、

地方の生活は「シンプル」です。

 

「シンプル」とは、

いい意味で言えば「迷いがなく」、

悪い意味でいえば「単調」です。

 

具体的にいえば、

ぼくの家の近所にはコンビニは1軒しかありません。

家から徒歩10分ほどのところにファミリーマートがひとつあります。

 

もちろん、

もっと遠くに行けばほかのコンビニもありますが、

徒歩圏内にあるのは1軒だけです。

 

東京の高田馬場に住んでいたときは、

徒歩圏内にコンビニが5軒以上ありました。

それこそ、コンビニの大手はすべてそろっていましたし、

セブンにいたっては近所に2軒もありました。

 

いまの生活のなかで、

コンビニに行きたいと思うと、近所の1軒に行くしかありません。

 

このように地方の生活は「選択肢が多くない」ぶん、

生活は「シンプル」になっていきます。

 

「シンプル」とは、

「毎日の出来事が(ほぼ)決まっている」ということです。

 

たとえば、

朝、何時に起きて、何時にご飯を食べ、何時に寝るか。

どこに買い物に行き、何を買い、誰と出会い、誰と話すか。

 

地方での生活において、

これらのことは「(ほぼ)決まり事」になります。

 

スーパーに行けば、

近所に住んでいる人に会います。

買い物はいつもの納豆を買います。

 

都会の生活でも、

「決まり事」がありますが、

地方でのそれは、

もっと多いと感じます。

 

その意味で、

地方の生活は「シンプル」です。

 

変化がなく、

落ち着いています。

 

毎日、変化に満ち満ちた生活を送りたい。

そう考えている人にとっては物足りないかもしれません。

 

毎日、違う人に会って、

新しい世界を広げていきたい。

そう考える人も、いると思います。

 

一方、

そんな刺激の多い毎日にうんざりしている人にとっては、

過ごしやすい場所です。

ぼくはどちらかといえば後者です。

 

しかし、

地方の生活に「変化」や「刺激」、

「新しさ」がないかといえば、それも違うかと思います。

 

地方の生活では、

都会とは違った「刺激」や「新しさ」があります。

 

「選択肢が多い=豊かさ」ではない

都会の生活ほど、

地方はモノにあふれていません。

 

だから、

都会は地方よりも豊かだとか、

地方は都会よりも劣っていると考えるは誤りだと思います。

 

モノがあふれている都会を「豊か」だと感じるのは、

その前提に「選択肢が多い=豊か」があるからです。

 

たとえば商品ひとつを購入するときでも、

ひとつだけよりも多くの中からひとつの商品を選ぶほうが

豊か(リッチな気分)だとぼくたちは感じます。

 

逆に限られた選択肢しか存在しなければ

それは豊かではありません。

 

このような「選択肢の多さ=豊かさ」という考えは、

資本主義社会が企業間の競争を生み、

人々にたくさんの商品やサービスを供給した結果です。

 

しかし果たして、

「選択肢の多さ=豊かさ」という前提は

正しいのでしょうか。

 

いいかえれば、

「選択肢が多くなればなるほど、ぼくたちは幸福になる」

のでしょうか。

 

ぼくはNoだと思います。

 

選択肢が多ければ、人は幸せになるとは限りません。

むしろ、様々な選択肢の中で人は迷い、ストレスを感じ、他人の選択に嫉妬を感じ、不満を抱えます。

 

「あらゆる選択肢が飽和化した現代」において、

ぼくたちが求めているのは「シンプルさ」「明確さ」ではないでしょうか。

 

選択肢は多くなくてもよい。

しかし、自分にとって本当に必要なものがほしい。

 

賢い消費者は、本当に必要なものだけを購買しています。

劣悪な商品は駆逐され、ブランドのある商品だけが残ります。

 

地方の生活は「明確さ」を持っています。

「シンプルさ」を持っています。

 

それを単調で退屈だと感じるか、

本当の豊かさだと感じるか。

 

ここが肝だと思います。